獣たちの夜

バラナシにはヒンドゥー教の聖地、ガンジス河がある。河は幅が広く弓なりに反っていて、にび色の水をたたえてゆっくりと流れる。岸辺には無数の小船が並び、対岸へと信者、通勤通学する人、観光客たちをひっきりなしに運んでいく。ある時、ふと河の深さが気になり、インド人の船頭に「河はどれ程深いのだろう」と尋ねたところ、笑顔で「Really deep.」とだけ返され、その笑顔の迷いの無さにつられて笑ってしまった。彼にとって、河がどれ程深いかを表す数字なんてどうでも良いのだろう。実際、それは僕にとっても同じだった。

 

朝、日本で見るよりも赤く大きな太陽が昇ると、水面はやわらかな光をうけて巨大な魚のうろこのように輝きながら揺らぐ。そして、河べりには沐浴をする人、髪や身体を洗う人、手を合わせて祈りを捧げる人、洗濯をする人たちが集う。聖も俗も混じり合ってーいや、そもそも聖・俗なんて分け方など存在しないかのように河は人々の営みに寄り添う。そして、喧騒にまみれた昼が過ぎ、太陽が落ちるとやがてひそやかな夜が訪れる。

 

ガンジス河のほとりには大きな火葬場があり、昼夜問わず亡くなった信者の遺体を燃やす為の火が焚かれている。少し小さめのベッド程の大きさの鉄製の火葬台に遺体を置き、大量の薪をくべ、火をつける。傍から見たらなんてことはない焚火と変わらないのだが、実際そこには生を受け、数日前、もしくは数時間前まで鼓動を打ち、呼吸をし、そして死んでいった人間が燃えていると思うと、今、どうして、自分が生きているのか分からなくなりそうだった。

 

バラナシの夜は冷えるので、空が濃紺に染まり、星がちらちらと見えるようになると、火葬場に牛、山羊、野良犬など多くの動物たちが暖をとりにやってくる。彼らは身を寄せ合ってぬくもりにぬくもりを重ねて静かに眠る。僕も火のそばに座り、眠る獣たちを見つめながらなぜ自分は人間なのかとか、ここで野良犬たちと一緒に眠り、朝を迎えられたらどれだけ良いかとか、そんな考えても仕方のないことばかり考えていた。自分が人間であることがたまらなく寂しかった。

 

自分が人間であること、旅人であること、日本人であること、つまりは自分自身であることから逃れることは出来ないが、多和田葉子さんの「雪の練習生」を読んだとき、文学は人を解放するものだと感じた。想像によって得ることが出来る自由というものが確かにある。旅も似たような力を持っていると僕は感じる。旅の途中で、自分が獣になったような感覚に陥ることが幾度かあった。街をひたすら歩き、疲れたら木陰で水を飲み、腹が減ったら近くの食堂に入る。その日生きて、眠り、また生きるを繰り返す。僕は獣のように街を歩いた。「自分は人間である」と「自分は獣である」という認識の揺らぎを往き来する。どちらが正しいということはなく、どちらも間違いなく自分である。今でも、僕の目には、手足には、心には、獣が宿っている。