街の灯り

‪太陽が沈む夕暮れ時、澄んだ青と橙色が混じり合い、刻一刻と色を変える空の下で遠くに見える街に小さな灯りがつき始める。灯りは徐々に増え、空が濃紺の闇に包まれる頃合いになると、星を地面にそのまま散りばめたような光の群れになる。そして、ふたたび太陽が昇るまで、街は静かに横たわり輝き続ける。‬


‪僕は街に暮らす人たちのそれぞれの夜に想いを馳せ、そっと泣きたいような心持ちになる。会ったことも無い、顔も知らない人たちの穏やかな夜を祈って切なさに胸が締めつけられるのは何故だろう。僕はとても不思議に思う。‬


‪春に山に来てからあっという間に半年が経ってしまった。四月の暖かな夜、東京から山へと向かう夜行バスに乗りながら、僕は村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでいた。本の冒頭で、主人公である少年カフカは15歳の誕生日に夜行バスに乗り込み、家出を決行する。奇しくも僕自身もその日、星空の下を疾走する大きくて野蛮な獣のようなバスの中で眠りながら誕生日を迎え、静かに一つ歳をとった。この人生の類似は、単なる偶然ではあったものの、僕にとって非常に印象的で暗示的な出来事だった。20半ばにもなって、15歳の少年に親近感にも似た心の寄る辺を覚えるのは自分の幼稚さや心細さが浮き彫りになるようで情け無い気もしたが、同時に、山暮らしをするという決断を少年が肯定してくれているように思えて心強くもあった。作中で少年カフカは「世界で一番タフな15歳になる」という強い決意を胸に秘め、「ほんとうにタフであるということがどういうことなのか」自身に問い掛けるが、その「世界で一番タフになる」という決意と「タフであるということがどういうことなのか」という問いは、そのまま山で暮らす僕自身のテーマにもなった。


‪「タフさ」とは何か。「海辺のカフカ」を読み終えてからも答えはなかなか見つからなかったが、山を見つめているうちになんとなく分かってきたことがある。僕が見つけた「タフであるということ」の答えらしきものは、「変化を恐れないこと」と「悲しみを受け容れる強さを持つこと」の二つだ。‬


‪僕が山に来た時、山はまだ厚い雪に覆われていた。そこから柔らかな陽射しにより時間を掛けてゆっくりと雪がとかされ、水が流れ、植物が雪の下から顔を出し、小さな花が咲いた。そして、短くて涼しい夏が足早に過ぎ、今や残雪は山陰にほんの僅かばかり残るのみとなり、山肌は滾るような紅に色づき始めている。山は絶えず表情を変え続けるが、いつだって悠然と構えている。その姿は刹那的であり、永劫的でもある。‬山は今までもこれからも変わらず存在し続けるが、全く同じ姿を二度見ることは誰にも出来ない。


人も、時とともに見た目や思考が変化していく存在である。しかし、「自分は自分である」ということについては生まれてから死ぬまで逃れられない。であれば、どれだけ変わっても自分は自分なのだから、変化していくことを恐れる必要はないのだなと僕は思う。自分は自分のまま、流動体として、しなやかに、自分の選んだ道を好きな歩き方で進む自由を人は誰しも持っている。


ただ、変化には時として悲しみが伴う。変わる、そして、それを受け容れるという時に、もう戻れない過去の自分や大切な人、思い出や夢を置き去りにして、もどかしげな手探りでまた新たな道を進まなければならない場合がある。しかし、訣別した過去へ別離の笑顔を向け、勇気を持って手を振り、振り返らずに颯爽と歩みを進めることの出来る強さ。それに耐え得る心の強度。これこそが、「タフさ」だと言って良いのではないだろうか。


‪僕は夜、渺茫とした街を眺めるたび、「世界で一番優しいタフになりたい」と思う。人は孤独で、人生は寂しい。ただ、悲しみに暮れながらも日々生きようとする人を癒すように優しく輝くものがある。‬街の灯りは、人々の生活の営みそのものだ。街の人たちは、そこで暮らすことによって誰かの孤独な夜を照らしているという事実を知らないだろう。山の上でひっそりと佇み、慰められている人間が居ることを知らないだろう。‬もっとも、知る必要など無いのだ。存在し、生活を続けること、それだけで何より生きていることの力強い証明なのだから。


今夜も僕はひとり、届くことはないと知りつつ街に暮らす人たちへと心の中で手を振る。そして、美しい夜明けのことを思いながら祈る。「どうか、穏やかな夜を。」と。